刀工事典(か行2)

日本刀の刀工で、金重は南北朝時代初期の美濃国の人だそうです。関鍛冶の祖とされているそうです。金行の父だそうです。本国は越前国敦賀だそうです。銘が入っている作はとても少ないそうです。地鉄が黒ずんだりと作風には北国気質があるそうです。帽子は掃掛けとなるそうです。金高という人は、室町時代末期の美濃国の人だそうです。遺例としては、永禄年間から天正年間の年記を刻するものが多いそうです。また古刀期から新刀期にかけて、同銘のものが数点るそうです。金行という人は、南北朝時代中期の美濃国だそうです。金重の子で、作風も金重に似ているそうです。銘があるのはとても少ないそうです。兼研というのは、室町時代末期で美濃国の人だそうです。室町初期から天文年間ごろに作刀していたそうです。鷹揚に富む互の目乱れを作風としているそうです。兼舎というのは、室町時代末期の美濃国の人だそうです。右衛門尉と称していたそうです。甲斐武田氏に仕えて、甲府で作刀をしていたそうです。江戸時代の安永年間ごろまで同銘があるすです。兼氏というのは、南北朝時代前期で美濃国の人だそうです。最初の銘は包氏だったそうです。大和国出身だそうです。美濃国多岐荘志津郷に移住して、志津三郎と名乗ったそうです。美濃伝に相州伝を加味した作風だそうです。地鉄は板目に杢、柾目を交えて強く錬れて詰み、刃文は焼き幅の高い互の目乱れを訳すです。地刃は明るく冴えているそうです。名品・名物が多いそうで、古来より賞玩されたそうです。銘があるのはとてもめずらしいそうです。兼景というのは、室町時代末期の美濃国だそうです。永正年間から天正年間に活躍したそうです。この間に同銘数工があるそうです。

兼国というのは、室町時代の前期、美濃国の人だそうです。三阿弥兼則の子供だそうです。今日見られる最古の年記作は、享徳三年の脇差だそうです。応永年間はくだらないとみられる兼國の作や、永享年間とみられる兼国銘もあるそうです。小太刀や片手打ちの刀など小振りの作品のほか、槍の遺例もあるそうです。作風は、地鉄がよく錬れて詰み、焼き刃は直刃や小乱れで細かな金線・砂流しや小足・葉が働いているそうです。佳作を遺したそうです。兼先という人は、室町時代後期の美濃国の人だそうです。茎を鷹羽鑢で仕立てるのが特徴だそうです。姿や地刃が同時代の備前物にも遜色がない作があるそうです。兼定は室町時代後期の美濃国の人だそうです。之定美濃の代表的な刀工だそうです。兼定の子と伝わっているすです。明応年間のはじめは兼定と銘したそうです。永正7年頃に和泉守を受領したそうです。切れ味に優れて、最上大業物に列せられたそうです。孫六兼元と人気・実力を二分するそうです。兼定は室町時代末期の美濃国の人だそうです。之定の子だそうです。作風は、身幅が広くて長寸で先反りが付いて、鋒の延びた戦国時代特有の体配だそうです。地鉄に関映りが立って、刃文は焼きの高い互の目乱れ刃だそうです。切れ味に優れて、大業物に列せられるそうです。兼綱というのは、室町時代後期の美濃國の人だそうです。文明年間から明応年間の兼綱には、茎を鷹羽鑢で仕立て、濃以下の銘字が次第に小さくなる特徴があるそうです。大和風の古き雅な作風を示しているそうです。室町時代後期、戦国時代にも同銘があるそうです。兼常という人は、室町時代後期、美濃国で活躍したそうです。兼定などの並ぶ美濃の名工だそうです。

 

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