刀工事典(か行3)

兼長というのは南北朝時代後期の備前国の人だそうです。相伝備前の大家長義の門人だそうです。作風は長義に似ているそうです。兼延というのは、室町時代後期の尾張国の人だそうです。美濃国小山の人だそうです。尾張国山田荘志賀に移住して、志賀関と称したそうです。兼法というのは、安土桃山時代の美濃国の人だそうです。兼常の子だそうです。または孫だそうです。慶長年間に越前国一乗谷に移って、その後は「越前國住兼法」「越前一乗住兼法」と銘したそうです。兼則というのは安土桃山時代の越後国の人だそうです。上杉氏の春日山城下において作刀していたそうです。のちに新発田城下に移ったそうです。茎は腹を削り、剣形に仕立てる独特の形となるそうです。兼房というのは、室町時代後期の美濃国だそうです。清左衛門。関鍛冶の惣領職を務めたそうです。兼房乱れと称される、丸みのある独特の互の目の刃文を創始したそうです。兼道というのは、安土桃山時代の美濃国の人だそうです。室屋派だそうです。遺例に、美濃斎藤家の重臣日比野清実の注文打ち、「兼道三作 日比野三位」という銘がある短刀があるそうです。永禄12年に正親町天皇に献剣して陸奥守を受領したそうです。「大」の字を拝領したそうです。兼光は南北朝時代中期の備前国の人だそうです。景光の子だそうです。鎌倉時代後期から南北朝時代中期の約40年間にわたり作刀したそうです。作風は、初期には景光と同じく肩落ち互の目、後期にはおおらかな湾れ主調の相州伝色の濃い作となったそうです。切れ味のよさに因んだ数々の伝説があるそうです。最上大業物に列せられるそうです。兼元というのは室町時代後期の美濃国の人だそうです。孫六兼元の父だそうです。

兼元というのは室町時代後期の美濃国の人だそうです。孫六だそうです。兼元の二代目で、初代兼元の子だそうです。三本杉と呼ばれる独特の互の目乱れを焼くそうです。大永二年から享禄二年にかけての年記作があるそうです。切れ味のよさで知られているそうです。最上大業物に列せられているそうです。和泉守兼定と人気、知名度を二分する名工だそうです。関の孫六と称されているそうです。兼安というのは、室町時代初期の美濃国の人だそうです。又六、晩年は得院と名付けたそうです。永享年間から永禄年間にかけて同銘が数工あるそうです。兼吉というのは、室町時代初期の美濃国の人だそうです。大和国出身で、姿は細身で鎬筋が立って均整が取れていて、刃文は細直刃だそうです。清國というのは、安土桃山時代の肥後国の人だそうです。同田貫派。初の銘が國勝だそうです。玉名郡伊倉村に住んでいたそうです。文禄4年以降、國勝から清國に改名したそうです。兄の上野介正國とともに加藤清正に仕えたそです。遺例に幅広で鋒の延びた豪刀があるそうです。同田貫派の他のものと比べて、地鉄は詰み、優れた作が多いそうです。清佐というのは、室町時代後期の薩摩国の人だそうです。波平。佐藤姓を名乗るそうです。大永年間に備前に移住して、長総清光の門人となって備前伝を修めたそうです。清綱というのは、鎌倉時代後期の周防国の人のことだそうです。二王と称するそうです。嘉暦年間の刀工だそうで、二王派の事実上の祖だそうです。二王の呼称は、平素信仰していた二王堂が火事になって、二王像を固定していた鉄の鎖を自作の脇指で截断して運び出したというように伝わっているそうです。「清綱」「防州玖珂住清綱」だそうです。

 

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